4ミニ.net運営の北です!
「良い文章」を書くにはどうしたらいい? 僕はライターという仕事を20年以上やっていますが、今も昔もよくこのことを考えます。
小学生の頃は文章を書くことで褒められたことはまったくありません(笑)。
子供の頃、大人と話をするのが苦痛でした。同世代の友人とは話せるのですが、先生、友人の親、親戚、近所のおじさん、店屋のおばさん等々、大人と話すことに恐怖を感じていたのです。
「自分がこんなことを話すと、相手が気分を害するのではないか」と、心の中は常にオドオドの状態。放課後、担任の先生に「皆がもらっているはずのプリントをもらっていません」の一言が言えず、職員室の前で2時間ウロウロしていたこともあります。作文や感想文を書く時も、「先生の意にそぐわないことを書くと怒られるかも」とビクビクしていました。
身体が大きくなり、全身の筋肉が発達し、心が攻撃的になり、相手を見て「確かに目の前にいる男は大人。しかしコイツ程度なら、3分で叩きのめせる」と腕っぷしに自信が出てきた小学六年生の時。以前のビクビクしていた自分に嫌気がさし、「もう大人の顔色を伺いながらオドオドするのはやめた」と決意。
大人に話しかけられても作り笑顔を一切せず、「はあ…」「まあ…」と、ほぼシカト状態。大人に対する反抗というよりも、むしろ自分自身の中の“反乱”に近かったような気がします。以来、心底楽になったというか、解放された気がしました。
人をナメたような態度をとられた男性教師は、「何とか言え!」と激高。物凄い形相で僕を睨み付けます(なお女性教師はビビっていたのか、気味が悪かったのか、ほぼスルー)。
しかし当の僕は、「知ったことか」と一切お構いなし。人間は強烈な呪縛から解き放たれると強くなるもので、睨まれたくらいではまったく動じない。怖くもなんともないんです。「殴れるもんなら殴ってみろよ」という達観した心持ち(挑発ともいう)でした。でもひっぱたかれた時は痛かった…。今考えれば厄介で嫌なガキですね(笑)。
中学生になると、やや路線を変更。大人に「右へ行け」と言われれば、「なぜ右に行く必要がある。その理由を言ってくれ。俺は左へ進む」と主張。「大人を無視する」から「大人に言いたいことを言う」にチェンジしたのです。当時は先生に随分と偉そうな口を叩いていました(猛反省)。
大人の顔色を伺わずに言いたいことを言う。解放された気持ちは、やがて大人(指導者)たちとの軋轢(あつれき)を生み、徐々に“闘い”へと変わっていきました。そんな中学生活を送る中で、僕の中で大きく変わっていったことが3つあります。それは、
①口が達者になったこと
②誰の前でも物怖じせず、自分の意見をはっきりと言えるようになったこと
③小学校時代に比べて文章が上手くなったこと
よく「感性を磨くため、子供には1冊でも多くの本を読ませるべき」という人がいます。確かにそれも正解だと思う。でも僕は、基本的に読書は国語の時間だけでいいと感じます。
大人が“~させるべき”という使命感に駆られ、「お前はゲームばかりして。本を読め!」なんて怒ると、子供は反発してこれ見よがしにゲームを開始する。至極当たり前の話ですが、「本を読みたい」と思えば、子供は自ら図書館に行って読むものです。
大人(特に親)は子供に対し、世代を問わず、できる限りいろんなジャンルの人々と出会い、会話するきっかけや機会を与えてやること。
“大人”という垣根を取り払い、いろんな「バカ野郎」「どうでもいい奴」「賢い人」「尊敬できる方」と思える人間と出会うことで、子供たちはAIやネットでは得られない、人としての“真実”を求め始める。つまり、自分自身と向き合う。
その結果、「もっといろんな人の生き方に触れたい」と感じ、“先人の宝”である読書の面白さに触れていく。すべての子供がそうなるとは限りませんが(以上は筆者の体験)、僕はこれが大切なのではと思います。
目次
読書は良い文章を書くための「引き出し」
僕が本格的に文章を書くようになったのは、大学生になってから。その頃、僕は映画監督になりたくて、シナリオ学校でシナリオ(脚本)を書いていました。
毎回先生からテーマを与えられ、それに基づいて物語を執筆するのです。書いたものは仲間たちで回し読み。しかしどれもこれも“作品”と呼ぶには「一万光年離れているぞ」と思える酷いものでした。
ちなみに僕のシナリオは、一万光年どころか三万光年離れており、先生は「どうもキミは文章が苦手なようだね。もっと本を読みなさい」と苦言。「本を読めば、いいシナリオが書けるのかよ」と思いつつ、言われた通りシナリオ、小説、エッセイ、評論などジャンルを問わず、一日に二冊のペースで乱読。そのうち、「ここに先週読んだあの本のシーンを盛り込んでみよう」などと小技も使えるようになり、徐々に「引き出し」を増やしていきました。
大学を卒業して雑誌編集の仕事をするようになってからも、暇を見つけては本を読むようにしました。記事を書く上で役立ったのが、学生時代に出会った本たち。
頭が疲れ切ってなかなか気の利いたキャッチコピーが浮かばない。今日はもう無理だ。そんな時に限って、ふと「そういえば昔読んだ●●が書いた▲▲というタイトルの小説に、こんなフレーズがあったよなあ…」と思い出すのです。
昔読んだ本がヒントになって筆が進むということは、最近でも時々あります。僕の場合、読んだ雑誌が引き出しになることはあまりなく、その多くは小説。僕にとって小説の読書は、少しでも良い文章を書くための「引き出し」を作るきっかけなのかもしれません。
哀愁の町に霧が降るのだ 上 (小学館文庫) 椎名誠著
「全日本・書き上手選手権」というものがあれば、椎名誠は私の中で間違いなくナンバー1。氏の作品は理屈抜きに面白くて読みやすい。「昭和軽薄体」と呼ばれた独特の文体で、小説=堅苦しくてコムズカシイというイメージを完全に払拭しています。
良い文章はトークと同じ。「テンポ」と「間」が命
文章を書く上で僕が常に意識しているのは、テンポと間。長編小説などはあまり関係ないかもしれませんが、「短時間で読者を引き込む必要のある」短い文章。例えば短編小説、新聞記事、A4 1ページ程度の雑誌記事、ブログ記事などは、特にテンポと間が大事だと思います。
リズミカルでテンポが良く、絶妙の間。何かに似てません? そう、落語です。
よく「話術を磨くためには落語を聞くといい」といわれます。例えば営業マンは、限られた時間(文字数)の中で、いかにお客さん(読者)を惹きつけられるかが勝負。
「この人の話はチグハグだ」「間が悪いなあ」「話し始めてから10分経つのに、一体何が言いたいんだろう」と思われてしまったらおしまいです。
これは文章も同じ。文字も言葉も、相手に自分の意志や情報を伝達するツールのひとつ。テンポと間は極めて重要だと思います。
くっすん大黒 (文春文庫) 町田康著
パンクロック歌手でもあり、「きれぎれ(2000年上半期)」で芥川賞を受賞した町田康の「くっすん大黒」。昭和のカミナリオヤジともいえる故・石原慎太郎氏に「まったく意味が分からん」と言わしめた、既存の小説の常識を打ち破った、革新的かつ新感覚の作品。句読点までのフレーズが、とにかく長い! かと思えば、会話の「」は一言・一言で切り返し。大阪出身の作者ならではの、上方落語や河内音頭のテンポと間を取り入れた同作品は、広告系にはあまり合わないと思いますが、雑誌系などにはハマりやすいと感じます。
コンテンツの作り手や発信者の役割
難解なことをいかに簡単に、しかも簡潔に説明できるか? これも良い文章を書く上での重要事項でしょう。
世の中には簡単なことを、わざと難しくしたがるヤツ。つまり大バカ野郎が多々います。なぜそんなことをするのか? その理由は、
・既得権益を守るため
・自己保身のため
・世間に自分のバカさ加減をバラしたくないため
なのだと思われます。
この手の代表選手は、筆者的には、新聞の世論調査の内閣支持率や次の選挙に勝つことのみにアンテナを張り巡らせる。もしくは民衆(有権者)に“己の愚行・無能・真実”を知られたくない政治家。
次に●●学者(国際政治学者等々)を名乗る、都心でのセレブ生活をやたら誇示する、恥知らずで田舎モンの、東大出のテレビコメンテーターに多い気がします。
ブログなどでは、「もっと分かりやすく書いてよ」「お前はエセ大学教授か?」と感じさせる、摩訶不思議で難解な文章に出会うことがあります。
ウェブ検索でページにやってくるのは、簡単なことが分からないビギナーさんが圧倒的多数。難しくて分からないことがあるから、わざわざ検索キーを叩いてやってくるのです。医者が病気の治療法を、ウェブ検索することはありえない。それと同じことです。
ビギナーさんが疑問に思うことを、わざわざ難しく解説することに、99.9%意味はない。難解なことは、その道の研究家や専門家が書いた学術書や専門書に任せておけばいい。
もちろんコンテンツの目的によっても違うでしょうが、基本的に我々のような「コンテンツの作り手」「コンテンツの発信者」は、専門用語や専門事項を噛み砕き、一般ユーザーに役立つ、またその分野に興味を持ってもらうようなコンテンツ(これをキラーコンテンツと呼ぶ)を作ること。これが大切なのではないでしょうか。
良い文章を真似ること。これが最速の上達方法
野球の守備は、ノックを受けた数だけ上手くなる。絵は描いた枚数分だけ上手くなる。文章だって書けば書くほど上手くなります。
つまりすべては訓練次第。ただしやっつけ仕事のように球を受けたり、同じ絵ばかり描いていたのでは、一向に上達しないと思います。
「グローブの使い方を変えれば、もっとスムーズにボールをさばけるはず」「この構図で描いたら、もっと魅力的に仕上がるはず」など、頭の中で上達した自分をイメージしてみることが大切。
「イメージ? そんな難しいことを言われても無理だ」という人は、まず好きな作家を見つけてみてはいかがでしょう。何冊か読んでいるうちに、その作家の文体の“クセ”が分かってくるはず。
クセが掴めてきたら、文章を書く時に真似てみればいい。ただしアフィリエイト文章や記事広告など、商業ライティングの場合、個人的に村上春樹は抽象的過ぎるのでおすすめしません(笑)。まずは直木賞系(エンターテイメント)の作家を攻めてみてはいかがでしょうか?
漫才病棟 (文春文庫) ビートたけし著
ビートたけし「漫才病棟」。「テンポと間」という点において、僕的にこれを上回る作品はありません(野坂昭如氏も「ベスト50に入る稀有な作品」と評論)。ガリガリにやせ細った麻薬中毒の踊り子が出演するストリップ劇場で客が激怒し、恐怖におののいたビートたけしが漫才を放り出して逃亡する描写。また、相方のビートきよしが劇場の屋上で、同棲相手であるオカマのオタカさん(屈強な元自衛隊員)と殴り合いの喧嘩をし、KO(ノックアウト)される描写等々(すべて実話だそう)、文章のお手本が満載です。
僕が考える「良い文章を書くための方法」のまとめ
人と会って会話する
とにかくいろんなジャンルの人と会って、直接話をすること。酒を飲みながらでもいい。人との会話によって、「今、このネタを喋ったら受けるぞ!」という直感が磨かれるとともに、「このタイミングでこのネタを喋ればいい」「今はやめておこう」という、“間”のとり方や“感性”が磨かれる。これは文章にも活かされると思います。
本をたくさん読む
雑誌よりも小説がおすすめ。小説家がもがき苦しみ(中にはスラスラ書けたものもあるだろうが)、熟考して組み立てた言葉やフレーズは、見本にする(盗む)べき点が満載。
落語を聞く
言葉のテンポを学ぶのに最適。古典はもちろん、テンポのいいスピーディーな今時の漫才も参考になるはず。
以上、少しでも参考になりましたら幸いです。イエイ。